グローバリズムについて国際教養大学学長に聞いてみた

昨今、グローバル人材の必要性が叫ばれる中で、今一度「グローバルってなんだ?」ということについて考えてみようと思ったHITPORT編集部は、ある人物のお宅を訪ねることにしました。

鈴木典比古氏
国際教養大学理事長・学長
1972年に一橋大学大学院経済学修士取得後、渡米し、インディアナ大学経営学博士。ワシントン州立大学、イリノイ大学で教鞭を執る。帰国後、国際基督教大学の教授を経て、2000年に同大学副学長、2004年に同大学学長就任。2013年から現職。

 

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イン&アウトという概念

ー本日はよろしくお願いします。早速ですが、一橋の中には世界に飛び立ちたいと思っている学生は多くいる一方で、意外とグローバルという言葉についての認識がまちまちだという印象があります。改めて、鈴木学長の考える「グローバリズム」について教えてください。

そもそも、日本の中で使われるインターナショナルやグローバルという言葉には、海外に出て行くことだという暗黙の前提がありますよね。しかし、海外の国々がみんなこの定義を使ったらどうなるでしょうか。

例えば、イギリスがグローバル化をやりたい、海外の諸国に出て行きたいなると、その海外諸国の中には日本も入っている。ということは、日本がグローバル化するということは、イギリスが日本に出て行きたいという考えを受け入れなければならない、アウトと同時にインを認めなければいけないということなんですね。そして、これが全世界で進んでいけば、世界中の国々がイン&アウトの原則を受け入れなければいけない、

つまり、今のグローバルな変化とは、イン&アウトの原則を全世界で採用していかなければいけなくなったという意味で、それまでのグローバル化=アウトだけということが通用しなくなっているということなんです。アウトでアメリカ・アジアに行って、活躍するのはいいことだと同時に、インとしてアメリカ・アジアから日本に入ってきた人が活躍するのも受け入れなければいけないということですよね。

今までは、 国民国家を中心とするナショナルというものがあって、その間を繋ぐインターナショナルが国際化だったわけですよ。そこには国境というものが厳然と存在して、国民国家の枠組みとして法律政治経済文化というものがあって、その間を橋渡しするのがインターナショナルだったんだけど、今はイン&アウトを同時に考えなければいけないということがこれまでと違うということと、21世紀というのはイン&アウトが出てくるだろうねという話ですね。

 

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国民国家はどうなる??


ーイン&アウトが進むグローバル化によって国境が薄まっていく中で、国民国家はどのような役割を持つのでしょうか?

グローバル化というけれども、人々の集合体としての国民国家という構造物も又非常に重要なもので、グローバル化したからといって、人間が根無し草になってはいけないんですよ。これは自己のアイデンティティが深く関わっています。どこかで生まれてどこかで育ち、どこかで亡くなるという一生を過ごす場合、国民国家の枠組みが存在している中で生まれ育っていくわけです。亡くなる時でもどこでもいいというわけではなくて、故郷に帰りたいという思いが本能的にあります。だから21世紀になってグローバル化と言われるけども、20世紀までの国民国家を中心とした自己アイデンティティの原理原則もまだ残っているんですね。

そして、この原則はナショナルなものなのですが、20世紀までのナショナリズムは対外競争的・対立的な性質を持っていて、自分の国はあの国よりも強いとか、国と国が優劣関係で論じられているエモーショナルなナショナリズムだった。だけれども、グローバル化=イン&アウトが起こる21世紀において、存在しうるナショナリズムは自分たちのナショナリズムを認めるならば、他の国のナショナリズムもあるんだということを相互に認めるラショナルで理性的・合理的なナショナリズムでなければいけない訳です。このテーマは非常に難しいテーマですね。

 

まとめると、グローバリズムというものが世界を覆って、イン&アウトで人の動きがでてきていますよと。国境がなくなりつつある。でも、国境はどうしても必要なんだ。これは、国民の安全・安心にとって必要だと。でも、この必要だというのが、エモーショナルなものであると、対立や戦争が起こる。そうじゃなくて、ナショナリズムというのは、理性的・合理的なものに向かっていかないと、21世紀はやっていけないということですね。ラショナル・ナショナリズムの在り方と可能性について考えることはこれからの課題ですね。

 

ーそういった意味で、グローバル化する中でも我々は日本の文化を学ぶ必要があるということですね?

さっき言ったように、国あるいは、社会、個人というものが一つのまとまった集合体や個として存在していくというのはその中で暮らす人々にとって非常に重要なことです。その上でそれぞれの集合体や個が共存して多様性を維持進展させていく。世界が多様性を保つためには、国民国家が存在していることが必要なわけですよ。グローバリズムというけれど、世界が同質化して世界中の人々が同じ生活パターンや食生活をして、例えばハンバーガーしか食べなくなってしまった場合、ハンバーガーのビーフである牛が狂牛病になったら全世界の食料はどうするの?という問題があります。

つまり、グローバル化が進み、地球全体が同質化になると全世界規模で脆弱性を持つわけで、世界中に多様な社会や国家が発展してきた基礎には、地球上の気候や地理上の相違というものもある。人類はそれに順応して生きてきたのです。世界で多様性を維持・進展させることは、全体を守るために必要なわけです。

個人でも、国民国家でもいいのですが、グローバルが進む中で個性や国民性を持つことは、権利ではなくて、責任です。グローバルに対する責任として、多様性を残していかなければいけない。そして、忘れてはならないことが、個や多様性は大切にするんだけれど、21世紀のそれはエモーショルなものではなく、ラショナルなものですよということですね。

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相互理解のためのリベラルアーツ

 

ー鈴木先生が学長を務められている国際教養大学はリベラルアーツの重要性を掲げられていますが、グローバル時代に求めらる人材とリベラルアーツの関係性について教えてください

英語が日本語に訳される時、翻訳された日本語が一人歩きして原語としての英語のもっている本来のコンセプトとは違うコンセプトになってしまうことはよくあるのですが、「リベラルアーツ」という言葉と「教養教育」という言葉の間にもギャップがあるのです。そもそもリベラルアーツの語源は、アルテス・リベラーレスというギリシャ・ローマ時代の言葉(ラテン語)に遡ります。これは自由人の為の学術や技芸という意味を持っています。

ギリシャ・ローマ時代における都市国家は、10%の自由市民と90%の奴隷によって構成されていたと言われていますが、その中で自由市民が国家を治めるために必要な能力を養う教育が「自由市民のための教育」、即ちアルテス・リベラーレスだったわけです。それは、知識のみならず、体力、気力、政治力、リーダシップなど全人力を教育するものでした。

つまり、国家を治めることが出来る、全人力を持った個を確立するための教育がリベラルアーツの語源なのです。各人が全人力を養う。そして、中世以降、大学教育は自由7科といわれる文法、修辞学、論理学、算術、天文学、幾何学、音楽学を修めることになります。即ち、それがリベラルアーツで全般的知識を修めた全人力を養うことになったのです。その中で、相互に個を確立するためには、「私はこう考えるけれどあなたはどうですか」という意見を持った上での「対話」を積み重ねることが必要なんですね。

これをまとめれば、グローバルでイン&アウトがおこる 時代の中で、国境を越えて相互理解が必要だという話を先程しましたが、個を確立した2人以上の人間の間で、相互理解のためには対話以外になく、リベラルアーツというのは対話を通じて個を確立する全人教育なんですね。これが、グローバリズムとリベラルアーツの今日的関係性だと考えています。

 

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後編では、グローバル化とIT化が進む中で必要とされる人材や、日本の立ち位置、そして鈴木学長自らのキャリアに迫ります!

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